日曜に想うに想う-お客様は神様か
朝日新聞の17日付は、お客様は神様か?というタイトルで論じている。
テーマは、地下鉄の運転手に口髭があるのは「基準」違反か、というところから,本論に入り,朝日新聞の主張である憲法改正反対論につなげている。
憲法論はさておき、お客様は神様なのか、というテーマはどうなのだろう。
大阪市の答弁は,「ひげは不快だ。安心して乗車できない。交通局は基準を貫いて欲しい」というものだという。
しかしながら,ルールというのは,本来は,仕事をやりやすくするための一種の手順を定めたものにすぎない。
ルールを定めることにより,それを関係ない人が主張し出すという弊害や逆手に取る弊害が出ているように論じられる。
朝日新聞は、「そもそも、ひげがはえていると安心して乗車できない人ってどんな人」という問題提起をして,さらに畳み掛ける。
「お客様になったところで自らの職場では,今度は自分たちがお客様のしもべになることを求められる。46時中お客様でいられる人は多くない」。
「お互い神様を演じるのを止めていつでも人間同士として接した方が気楽でいいと思うのだけど」
犯罪心理学では,ルールにこだわる人は、自分自身に対して絶対的嫌悪感を抱いていることが多く,ルールを作り守らせることで自己正当化を図るといわれる。
この原告は英語が話せるというアドバンテージがあるが,髭をそらせることと英語を話せる職員を失うことの利益考量が失していることはいうまでもない。
朝日新聞は、「目の前の困っている旅行者より、何を言い出すか分からない神様気取りのお客様に気を使うのでは本末転倒」と指摘する。
さて,最近,似たような経験をした。経営者の会合で,「遅刻をしないこと」という一応をガイドラインをもうけたところ、それを逆手にとって1分遅れたから不愉快だ,といって帰って行った経営者がいた。
時は金なり、という発想が強いだろうが,1分にいかほどの価値があろうか。
会合のルールで遅刻をしないことが望ましいのは、会合が時間通りに始まり、時間通りに終われるようにするためであり,究極的には会合を有意義にするためである。
多くの人は廊下で待っていたわけだが、そういう目の前の人よりも,何を言い出すか分からない神様気取りのお客様には困ったことだ。
朝日新聞が指摘するように、そんな神様は、自らの神様に強いしもべになるよう求められてしまう。
そもそも、地下鉄の運転手と乗客、経営者同士の会合には、いずれも上下関係はないフラットな関係だ。
それをガイドラインを盾に神様になってふんぞり返る人は、物事の本質を理解していない。
神様の席から降りてきて,こう語りかけるといい。
「May I Help You?」