「過程」を問わない行政・司法・政治でいいのか。
国家対市民社会というパースペクティブで世の中をみると、国家に求められるのは、国民が、公平・公正・公正らしさという信頼感にあるのではないか。
朝日新聞の10月1日報道によれば福田康夫元首相は「民主主義国家で、国民が様々な判断をするために正しい事実を知る」と話したという。政権をあげて政策決定の過程を記した公文書を後世に残すことに取り組まれた。
翻って安倍政権はどうなのだろうか。公文書を安易に破棄する。これは証拠を残さないためにそもそも作成しないケースも多いとみられる。そして存在する文書を「怪文書」という。おそらく証拠を残さないために公文書を作成しないため備忘録が広く安倍政権では流通していたとみられる。記録はあるのかないのかというと「記憶がない」と繰り返す。挙句の果てには、批判に対して、安倍首相は、被害者意識を丸出しにして「こんな人たちに負けるわけにはいかない」というが、そもそも情報は国民のものだ。せめてもの説明責任をも果たさない。
同じことは裁判所にもみられる。手続きの不公正としての正義がみられたが、それを是正を求める手続きをとったところ、わずか2日で何の調査もしないで決定が出された。当然即時抗告をしたが、いつもは行政に口うるさい藤山雅行も単に理由がないと述べるだけであった。このネットでも例えばこどもの親権事案はここがポイントになっている、というようにわずかなことがきっかけになっていることが多い。そのために、裁判所に対する公平・公正が求められる気配りが必要だ。だからこそ「結果」が受け入られる余地が出てくるのではないか。手続きが不公正であれば結果も不公正なものと信じるのは社会人なら普通のことだ。
小池百合子氏にも同じことがいえる。もはや「希望の党」は政策が見えず、単に小池氏の好き嫌いを安全保障政策で「センベツ」して奴隷議員を作る「野望の党」と同じといえる。リベラル系を排除するノートは「デスノート」と呼ばれ、枝野幸男氏の代表戦の推薦人全員がデスノートに名前が載せられている。そして、お世辞にもリベラルとはいえない野田元首相や安住氏もデスノートに名前が載ったが、これは「小池氏が嫌いだから」といわれている。
小池氏の「リセット」という言葉に違和感を持つ人は少なくないだろう。
リセットというのは、事後検証もしない、政治や人の重要な事柄が関わることで「リセット」などできるはずがない。
ゲーム感覚で物事をいっているのであれば、ギャンブラーに国の経営を任せるわけにはいかないだろう。
行政手続きの透明化を売りに都知事に当選しながら、情報公開も「リセット」、都知事も「リセット」では、小池氏の良識を疑わざるを得ない。政治家ではなく政治屋だ。
小池氏は情報公開といいつつ、築地市場の移転問題で記録がないことについて、「AI、つまり私が決めた」とけむに巻いたという。
この人の「野望の党」では、自らが総理になるためギャンブルを次々とやるのだろう。その政策の決定プロセスは「AI、つまり私が決めた」では相応しくない。そしてギャンブラーの都合が悪くなったときの言い訳は「リセット」である。我々は騙されるべきではない。
プロセスを問わないとたいていは独裁に陥る危険をはらんでいる。それが適正手続きというもので憲法31条にも書いてあるのではないか。それが市民社会の国家に対する信頼のマイルストーンである。