「悪」の問題って―ライプニッツで甥っ子と繋がる。
甥っ子が、僕が弁護人をしていると、ミッション系の学校に通う甥っ子が議論を吹っかけてくる。いわゆる神が完全ならばなぜ故「悪」が存在するのかという、神義論とか、弁神論とか、いわれている議論をふっかけられる年代に成長したのだなあとしみじみ感じつつ。
すなわち、「悪」も神が想像したものなのか、というこということだ。
曹洞宗に親和的な僕には、どうでもいい話しだが、欧米では昔から有神論者には4つのテーゼがある。その際、問題になるのは、「悪」というのは神が作ったかということだ。ダンラザーがイブニングニュースから降板する際の別れの挨拶を思い出す。彼は、ニューヨークでの同時多発テロや津波を引き合いに出して、傷ついた私たちの心は修復の過程にある、と挨拶した。
4つのテーゼというのは、①神は全能である、②神は全知である、③神は完全な善である、④この世には悪が存在するのだ。
キリスト教徒にとっては自然なことでも、哲学のアプローチからは、善しかない世界を作れば良いでしょう、ということになる。甥っ子のシュシュからも昔、「僕は世の中を平和にするために勉強をしているんだ」という言葉を聴いたことがある。
そのとおりで、哲学からは、神は全能であるのに、意図的に悪を創造したのだ、といわれてしまうのだ。
その回答として提供されるのは、「この世に悪があるのは、神のせいではない」というものだ。
つまり、神は世界は創造したが、人間が悪さをしていると考えるのだ。そのレトリックというのは、神は人間に自由意思を与えたが、悪をなくすには自由意思を与えるのをやめる必要がある。しかし、人間が自由意思を与えるのを止めるのでは、現実の世界が悪いものになってしまいます。だから神は最善の選択をして、人間に自由意思を与えて結果として悪が生じたということになる。結果的に、このレトリックは、「人々に勤勉であれ」と説くことになります。
しかし、自然災害が多い我が国では、もし全能の神がいるなら東日本大震災など起きるはずがない、日本では、八百万の神や仏教が調和し、絶対神の宗教があまり広がらない感覚というものかもしれない。
意外なところで、ライプニッツが出てくる。
弁護士であれば、交通事故の損害計算でライプニッツ係数でお馴染みだ。そのライプニッツが、回答を与えている。キリスト教の影響をそれなりに受けている甥っ子くんと僕がライプニッツで異なる視点で繋がる。
例えば、津波であっても、「津波のない社会は、ある社会よりも悪い」と論じる。数学者らしく、ライプニッツによれば、例えば、天気の変化を支配する見事な法則を見出すことができなくなるからだ。