お役立ちコラム
最高裁平成27年3月26日が、非上場株式の評価について判断を示しています。
本件は,Yを吸収合併存続株式会社,Aを吸収合併消滅株式会社とする吸収合併に反対したA株主のXが,Aに対して株式買取請求権を行使し,会社786条2項に基づいて価格の決定の申立てをした事案である。弁護士からは肯定的意見が多いようであるが、公認会計士からは非上場であるのに非流動性を考慮しないのは釈然としないとの意見が寄せられている。この判決は、裁判所の合理的裁量に一定の制約を課すものと思われ実務上の意義を有すると思われる。
Aは非上場会社であるところ,原審(札幌高決平成26・9・25,平成26年(ラ)第151号)は,収益還元法(将来期待される純利益を一定の資本還元率で還元することにより株式の現在の価格を算定する方法)を用いてA株式の買取価格を決定するにあたって,市場性がないことを理由とする25%の減価を行った(非流動性ディスカウト)。
しかし本決定は,①非上場会社の株式の買取価格を決定するにあたり,どのような場合にどの評価手法を用いるかについては,申立てを受けた裁判所の合理的な裁量に委ねられている,②しかし,一定の評価方法を合理的であるとして,当該評価方法により株式の価格の算定を行うこととした場合において,その評価手法の内容・性格等からして,考慮することが相当でないと認められる要素を考慮して価格を決定することは許されない,③非流動性ディスカウントは,非上場会社の株式には市場性がなく,上場株式に比べて流動性が低いことを理由として減価をするものであるところ,収益還元法は,当該会社において将来期待される純利益を一定の資本還元率で還元することにより株式の現在の価格を算定するものであって,同評価手法には,類似会社比準法等とは異なり,市場における取引価格との比較という要素は含まれていない,④吸収合併等に反対する株主に公正な価格での株式買取請求権が付与された趣旨が,吸収合併等という会社組織の基礎に本質的変更をもたらす行為を株主総会の多数決により可能とする反面,それに反対する株主に会社からの退出の機会を与えるとともに,退出を選択した株主には企業価値を適切に分配するものであることをも念頭に置くと,収益還元法によって算定された株式の価格について,同評価手法に要素として含まれていない市場における取引価格との比較により更に減価を行うことは相当でない,と判示して,非流動性ディスカウントを行う前の価格を買取価格として決定した(破棄自判)。
本決定は,会社786条2項に基づいて非上場会社の株式の価格を決定するにあたって,非流動性ディスカウントを考慮することができるかにつき,最高裁が初めて判断を示したものである。この点に関しては,東京高決平成22・5・24(平成20年(ラ)第637号)が,「株式買取請求権は,少数派の反対株主としては株式を手放したくないにもかかわらずそれ以上不利益を被らないため株式を手放さざるを得ない事態に追い込まれることに対する補償措置として位置付けられるものであるから,…非流動性ディスカウント…を本件株式価値の評価に当たって行うことは相当でない」と判示した一方で,本件の原審のように非流動性ディスカウントを考慮するものもあり,実務は統一されていなかった。また,学説においては,「取引相場のない株式等は,簡単に譲渡できない分だけ上場会社の株式に比して経済的価値が低く,したがって,割引率として後者〔上場会社〕に関係する数値を用いた場合には,算出された金額をいくらか減価することにより調整すべきである」との見解も有力であった(江頭憲治郎『株式会社法〔第6版〕』19頁)。
収益還元法は,将来の各期の純利益を現在価値に割り戻し,その総和をもって企業(=株式)の価値を算定するものであって,売却による価値の実現化はこの評価手法のもとでは予定されていないのであるから,理論的には本決定の説くとおり,非流動性ディスカウントを考慮するのは相当ではない。しかし他方で,上記の有力説の指摘もまた傾聴すべき点を含んでおり,本決定を前提とした場合には,今後,非上場会社株式の価格の算定にあたって割引率の妥当性がより厳密に問われることになろう。
以上のとおり,本決定は,従来は不統一であった論点について最高裁がはじめての判断を示したものとして,実務上大きな意義を有するものである。
会社法786条2項に基づき株式の価格の決定の申立てを受けた裁判所は,吸収合併等に反対する株主に対し株式買取請求権が付与された趣旨に従い,その合理的な裁量によって公正な価格を形成すべきものであるところ(最高裁平成22年(許)第30号同23年4月19日第三小法廷決定・民集65巻3号1311頁参照),非上場会社の株式の価格の算定については,様々な評価手法が存在する.。
しかしながら,どのような場合にどの評価手法を用いるかについては,裁判所の合理的な裁量に委ねられていると解すべきである。
しかしながら,一定の評価手法を合理的であるとして,当該評価手法により株式の価格の算定を行うこととした場合において,その評価手法の内容,性格等からして,考慮することが相当でないと認められる要素を考慮して価格を決定することは許されないというべきである。
非流動性ディスカウントは,非上場会社の株式には市場性がなく,上場株式に比べて流動性が低いことを理由として減価をするものであるところ,収益還元法は,当該会社において将来期待される純利益を一定の資本還元率で還元することにより株式の現在の価格を算定するものであって,同評価手法には,類似会社比準法等とは異なり,市場における取引価格との比較という要素は含まれていない。
吸収合併等に反対する株主に公正な価格での株式買取請求権が付与された趣旨が,吸収合併等という会社組織の基礎に本質的変更をもたらす行為を株主総会の多数決により可能とする反面,それに反対する株主に会社からの退出の機会を与えるとともに,退出を選択した株主には企業価値を適切に分配するものであることをも念頭に置くと,収益還元法によって算定された株式の価格について,同評価手法に要素として含まれていない市場における取引価格との比較により更に減価を行うことは,相当でないというべきである。
したがって,非上場会社において会社法785条1項に基づく株式買取請求がされ,裁判所が収益還元法を用いて株式の買取価格を決定する場合に,非流動性ディスカウントを行うことはできないと解するのが相当である。
表題のシンポジウムに参加してきました。
医療事故調査制度が施行されて半年を経たわけですが、この制度の趣旨は医療安全の確保と医療事故の再発防止とのことです。
航空事故調査委員会に似ていますね。
患者側代理人弁護士は、きちんと調査されるだろうか、という点に疑問を呈されました。
どの分野でも問題になる点の底流は同じだな、と改めて感じます。
やはり、当該医療機関で公正な調査というより訴訟などにならないような意図をもった調査になるのではないか。
客観性・専門性を確保する仕組みがないのではないか。
第三者機関の検証機能は大丈夫なのか。
調査報告書というペーパーで報告され保身が優先され遺族が蚊帳の外におかれる
というものです。
先生は、当事者には、強い不信・不安があるので、保身を優先することは信頼関係を破壊することになる、と指摘されました。
今後、調査に協力しなければ、ペナルティが必要ではないか、との指摘などもされました。
ところで、刑事事件はあまりにメジャーなので、家裁事件について比較してみたいと思います。
調査官調査においては、公正に調査がなされるだろうか、という点ですが、家事事件でも同じ問題があります。名古屋家裁では、すでに調査をする前からインテーク意見というのをつけて結論に沿った事実のみひろうという作業をしています。つまり「結論ありき」で公平ではないのですが、裁判所が他方に肩入れする理由はないので肩入れしてもらえなかった方は裁判所に対する不信感を特に募らせるものです。
客観性・専門性を確保する仕組みは大丈夫か、ということですが、調査官報告書と航空事故調査報告書を比較対象すると、全く客観性・専門性が異なります。まず家裁の事件は主観的であり、「それはあんたがそう思っているだけではないの」と、多くの賛同を得られないだろうなという意見が書かれています。どうせ「公開されないからめちゃくちゃでいい」という発想が底流に流れているような気がします。家裁も、調査官報告書にすべてが記載されているわけではない、というのです。医療でも同様に、口頭で報告して当事者であっても説明を受けられない、こうした隠された真実で、説得力のない説示はますます裁判所に対する不信感を強める結果に終わることになります。また、専門性ですが、患者側医療弁護士が指摘したのは、なぜ文系の知識者が入っているのだ、という指摘をされました。つまり、門外漢では分からないのではないのでは、という指摘で、こういう委員は往々に発言しないでお飾りで終わってしまうとの指摘がありました。患者の方は、訴える場所が全くない、という気持ちをお話しされましたが、これは、様々な分野で共通することではないか、と思います。そして、専門性の担保といいますが、医師、看護師、主婦連などは、専門性担保はあるのでしょうが、家裁調査官はなぜ専門性があるのか分かりません。裁判所の内部の研修を受けたら専門家というのは、あまりにお手軽といわざるを得ないです。臨床心理士や児童福祉士、幼稚園教諭など外部者でも様々なものがあるものの、なぜ調査官、しかも20代前半の女性を専門家といわれても、少なくとも社会的承認を得ることは難しいと言わざるを得ません。
そして、第三者機関の検証機能は大丈夫か、ということです。しかし、医療事故の場合は、メンバーに不満はあれど「第三者」なのでしょうが、家裁の場合は裁判官の部下が調査をするわけです。そうすると、裁判所の暫定的心証からそれに基づいて調査命令を出すのですから、調査官が裁判官のオーダーに即さない事実は、刑事と同様握りつぶされてしまいます。そういう意味では、医療事故調査制度の方が第三者委員会を構成するという意味で、公正性や検証機能は大丈夫といえない!というのがシンポジウムの結論ですが、検察や家裁などもっとひどいところはいくらでもあるということになるでしょう。
とても共感するのは、こうした調査は、遺族・家族・被疑者等、もっとも利害関係がある人が蚊帳の外ということです。
調査報告書を交付して説明をしてくれるのか。⇒裁判所では「調査理由がすべて調査官報告書に記載されるわけではない」と書かれたこともありましたが、
保身を優先すると遺族の不満を増大する。⇒家裁でも「結論ありき」では、信頼関係が破壊されます。
調査官に調査の経緯を聴いても応えませんし、調査自体の主体、その状況なども非公開ですが、今さら被疑者であるまいし・・・。
医療事故調査制度に関連して藤田保険衛生大学病院から、「藤田あんしんネットワーク」の説明がありました。
藤田では、医療安全を学問としての確立を目指しているとのことで、情報公開もされることになるでしょう。
医療安全管理室には、専従教授、専任医師、専従看護師が配置され、上部組織である医療の室・安全対策部には弁護士も配置されています。
この要請なのですが、年間100件から195件程度の急変について報告されています。急変は事故ではありませんが、その予兆は早朝から生じていることが多いのであって、インシデントに対応するMETという部隊がいるようです。初期態勢が重要ですが、聞き間違いでなければ、METが初期対応を藤田では負っているということになるのでしょう。
医師の事故報告では、アクシデントが約5割を占めており、重大事故がほぼ報告されていますが、軽微な事故、インシデントは報告されないとしています。
また、藤田の調べでは、救命の場面では、医師や看護師は混乱の中で、それぞれいうことが異なるといいます。だからこそ客観的なカメラによる調査が大事、と述べています。
そのように、医師、看護師ですらいうことはバラバラなのですから、やはり事実の調査には、可視化が必要と云わざるを得ないと思います。
安全意識が高い診療科ほど報告数が多いのですが、診療レベルも高いのですが、家裁は、苦情窓口もありませんし閉鎖性も高いですから、調査レベルも低いとなるでしょう。
医師の事故報告はリアルタイムに得にくいことが安全管理上の課題であるということであって、このことは多くの問題にも共通すると考えられます。
外圧で報告を強制しても、改善が得られないという藤田サイドのシンポジウムの報告には、共感するところがあります。自浄努力がない組織ほど手をつけられていない、特に公務員は不祥事を隠すということがありますから自浄作用もありません。どのようなインシデントやアクシデントがあったのかなど報告されるべきようにも思いますが、家裁は、家裁月報も廃刊し、ますます閉鎖性を強めているようです。藤田では、入院後早期に死亡した場合、診療経過における事故の可能性はないか、適切な医療がなされかどうかを第三者が検証するものとされています。何らの検証もなされず、調査という名だけのものであってはならないのは、家裁の調査官調査が私が弁護士として体験したもので最も最悪のものですが、医療事故調査制度についても、小さく生んで大きく育てる、としていただきたいと思うのです。
患者側弁護士は指摘します。
・粘り強く
・自浄作用を促す
・ないよりもましかと
・隠忍自重して
・見守り育てる
このうち、家裁調査では、粘り強く、自浄作用、ないよりまし、・・・があてはまります。
これらは、会社のパワハラ・セクハラの第三者委員会にも共通するのではないでしょうか。舛添東京都知事のように第三者を自分で当事者が自分で選ぶでは論外というべきではないでしょうか。
大学病院医療安全・感染管理部Aiセンターからの報告
右と左を間違えたという事故は減ってきていますが、この対策で現場は疲弊はしています。
千葉県、群馬県の事例がクローズアップされておりますが、右と左を間違えない、部位を間違えない、という医療の室に対する介入というのは全国的にはされておりませんでした。
特に、患者団体から、何をしているのかという指摘を受けるが確実に進歩しているのです。
今回は、改正医療法ですから、自分の大学病院では特に大きな変化はないとされますが、大学病院以外ではバタバタしているところが多いかと思います。
医療機関、患者など4つのエレメントですが、私は、支援団体ということになるのですね。死亡事故については、次のステップとして、医療事故に該当するか判断しますし、これに該当しなければ医療事故になりませんが、支援団体の支援は必須である、に代わってきました。支援団体については、大学病院はそんなにたくさんないんですよね。そういうこともありますので、地域の医師会とのタイアップが必要ということになってきていますが、医療事故の判断の相談その他になっているのです。
よくみると、センターへの報告前後にいくつか項目が分かれるのですね。事故の対象かの判断が医療事故判断時ということで、比較的早いということになるかと思います。大学としては、限られた資料ということで、医師会とタイアップしてというように医師会の下部組織として、活動するということになっているのです。したがって、医師会を通して大学に連絡、というような手順になっております。
なかなか理事者で夜間は対応したり、ということになっておりまして、なかなか大変であります。
大学では、医師の派遣が求められることではないか、ということですね。建前といいますか本当の流れなんですが、現実は私のところに電話がかかって、私から各自に情報を流すという実態でございます。
医療安全委員会に人を出すということについては、医師会を通してはないということは事後報告ということになろうかと。地理的に遠いという事情がございまして、だいたいの院長の顔はしっております。
死後画像診断(AI)については、早くから取り組んできてきたのです。AIはCTですから、生きている方で検査すると、頭、胸、腹で首を落としてしまう、小児の虐待の場合は、AIの方が分かるということがあるのでして、放射線技師にしらないといけないのです。AIについては、いろいろ利点があり機械があればどこでもとれるのですが技師に知識がないとどうにもならないのです。Autopsy Imagingというkとなんですが認定技師が配置されようとしているわけです。
大学の資料について紹介をいたしますと、そのときですね、久々に大学病院ですが医師の専従なんておりませんで、医療安全に専従がいるのは東北と京都だけでした。病院というのは、御幣があってごめんなさい、亡くなる方には興味がないのです。病院経営は稼働率というのが欠かせないのです。そして、死亡者を聴いて応えられる院長は、ほとんどいないのです。AIも持ち出して、死を忌み嫌いというところがありまして費用も出なくて、日本の国民性もあるのですね。私は、2006年から把握できるような感じですが、医療安全はトップリーダー次第だと思うのです。私は、だいたいAIについていいますと外来のほとんど、9割なんですが、AIをしているという状況なのです。要するに、死亡事例が、診療がみるというのはダーク、特に外科系の手術について、なんで寝た子を起こすことをするねん、とか、人様の座敷にはいってくるねん、というようにいわれたのです。しかしながら、病院全体で検証すると、かえって診療へのメリットもあるということもわかっていただけた、と思うわけなのです。
当時は、先月、何人なくなったということすら把握できていませんでした。先ほど、AIを積極的にやりますのがわが県の特徴でありますが、どういう仕組みかといいますが、大学の患者については、医療事故かも、ということについては大学医師の病理と他病院で、立ち会うということをやる、都合がつかないということになると、別系統の法医学が立ち会うことにしたのです。この観点から非常に透明性が高まったというように考えております。たしかに、同じ大学でも医局が違うのであればそれなりに機能するのではないかと。
私は、忌み嫌うということから、粛々対応に交代している、に代わってきたと思うのです。あくまでも決めるのは病院の管理者であり私は意見をいうだけなのです。肌で感じまして、届けることは忌み嫌うという空気があったのですが、淡々と届けるという雰囲気になっておりまして、ガイドラインどおりになっているということになるかということで、届けるか届けないかということは、小さなことでありまして患者さんにきちんと説明しているかなのでして、届出をするかどうかというか矮小化してはならない、あくまでも患者さんへの説明責任を尽くしているか否かというのが物事の本質なのです。ですから、一事例としては、届出は粛々、説明責任を果たしましょうという本来の理想像に近づいているというように考えているのです。政策議論はあると思うのですが、私は法律で現行犯で破らない限り、なかなか法律を厳しくしてうまくいかないのですよ。どちらかというとボトムアップで、社会的コンセンサスを経て育んでいくと思うのです。現場の意見としては、やましいことがなければ届け出ればよろしい、本質的には、患者さんなり遺族なりに納得していただくということが重要だと思うのです。
明晰にいえば、営業網が弱い会社では、販売店契約や代理店契約を締結するメリットがあります。
では、販売店契約と代理店契約の違いは何でしょうか。
販売店契約とは、販売店がメーカーから自己の名前と計算で商品を仕入れるとともに販売権を得て、顧客に商品を再販売するという契約をいいます。
販売店は商品を買い取っていますので、これを転売するにあたり独自の商品販売価格を自ら設定することができます。ですから、高い転売利益が得られる場合がある建付けです。
しかしながら,メーカーからは「購入」が前提ですので、多数の在庫を抱えるリスクを抱えることになります。
こうしてみると,販売店については、メーカーとはかなり独立性が強く、値決め、債権回収、在庫リスクなどを負うことになりますが、他方、転売利益が大きいことやプロモート費用が大きくなります。
次に、代理店契約です。代理店というからには、あくまで「代理」で報酬はコミッションを得るという建付けとなっています。
代理店契約とは、代理店が、メーカーの代理人となり、代理店がメーカーの製造した商品を顧客に販売する契約をいいます。
このため、売主は、あくまでもメーカーが効果帰属主体となります。代理店は、在庫リスクは追わず、コミッションを報酬にするということになります。
こうした契約を締結する際、実質的にみるべきで、在庫リスクは誰が負うのか、顧客との間で締結する商品売買契約の法的効果が誰に帰属するかということで契約内容が異なってきます。
これらは、経営戦略上の問題でもあることから、販売店となるか、代理店となるか、検討する必要も十分にあります。
名古屋駅ヒラソル法律事務所では、青年会議所の教育ビジョン確立委員会を通じた社会貢献に加えて、産経新聞写真ニュースを中心としたこどもニュースを名古屋市立八事東小学校に寄付させていただきました。
今後とも法的サービスを通じた社会貢献のみならず、様々な形での社会貢献を行ってまいります。
所長弁護士(八事東小学校卒業生) 服部勇人
朝日新聞の17日付は、お客様は神様か?というタイトルで論じている。
テーマは、地下鉄の運転手に口髭があるのは「基準」違反か、というところから,本論に入り,朝日新聞の主張である憲法改正反対論につなげている。
憲法論はさておき、お客様は神様なのか、というテーマはどうなのだろう。
大阪市の答弁は,「ひげは不快だ。安心して乗車できない。交通局は基準を貫いて欲しい」というものだという。
しかしながら,ルールというのは,本来は,仕事をやりやすくするための一種の手順を定めたものにすぎない。
ルールを定めることにより,それを関係ない人が主張し出すという弊害や逆手に取る弊害が出ているように論じられる。
朝日新聞は、「そもそも、ひげがはえていると安心して乗車できない人ってどんな人」という問題提起をして,さらに畳み掛ける。
「お客様になったところで自らの職場では,今度は自分たちがお客様のしもべになることを求められる。46時中お客様でいられる人は多くない」。
「お互い神様を演じるのを止めていつでも人間同士として接した方が気楽でいいと思うのだけど」
犯罪心理学では,ルールにこだわる人は、自分自身に対して絶対的嫌悪感を抱いていることが多く,ルールを作り守らせることで自己正当化を図るといわれる。
この原告は英語が話せるというアドバンテージがあるが,髭をそらせることと英語を話せる職員を失うことの利益考量が失していることはいうまでもない。
朝日新聞は、「目の前の困っている旅行者より、何を言い出すか分からない神様気取りのお客様に気を使うのでは本末転倒」と指摘する。
さて,最近,似たような経験をした。経営者の会合で,「遅刻をしないこと」という一応をガイドラインをもうけたところ、それを逆手にとって1分遅れたから不愉快だ,といって帰って行った経営者がいた。
時は金なり、という発想が強いだろうが,1分にいかほどの価値があろうか。
会合のルールで遅刻をしないことが望ましいのは、会合が時間通りに始まり、時間通りに終われるようにするためであり,究極的には会合を有意義にするためである。
多くの人は廊下で待っていたわけだが、そういう目の前の人よりも,何を言い出すか分からない神様気取りのお客様には困ったことだ。
朝日新聞が指摘するように、そんな神様は、自らの神様に強いしもべになるよう求められてしまう。
そもそも、地下鉄の運転手と乗客、経営者同士の会合には、いずれも上下関係はないフラットな関係だ。
それをガイドラインを盾に神様になってふんぞり返る人は、物事の本質を理解していない。
神様の席から降りてきて,こう語りかけるといい。
「May I Help You?」
私書箱事業者が、振り込め詐欺などに利用される可能性はあるかと思いますが、損害賠償事例でその影響がベンチャーなどにも多いのではないかとの裁判例が出ました(東京地裁平成28年1月26日)。
分かりやすると、判決は、犯罪収益移転防止法を引用し、この趣旨から、本人確認は形式的なものでは足りず、書類が真正なものであることなどを確認し、実質的に本人確認を求めている、という趣旨の内容をしました。そして、過去の会社の経験などから、契約後であっても平成23年11月の時点で、改めて実質的な本人確認をすべきであったのにこれを怠ったというものです。
そして,非対面取引の場合、会社は転送郵便物による本人確認をすべき義務を負っており賠償請求を認めています。
カウンセリングなどもそうだと思いますが、消費者を相手の場合、身分確認を求める業種は複数あると考えられますが、その確認が形式的なものでは足りず、しかも契約後であっても再チェックする義務があること、非対面取引の場合はその本人確認義務は高度のものになるとまとめられそうです。
非対面取引を希望する消費者の方は多いので、事業者としてよく注意をしたいところです。
岡崎支部平成27年12月25日が仕組債について説明義務を認める判決を言い渡しました。
近時、最高裁で、1審、2審を破棄して説明義務を否定したケースも登場していたところです。
同じ仕組債でも、最高裁平成28年3月15日は、説明義務違反を否定しています。
最高裁の場合は専門職代理人の関与があることが大きい衣ように思います。 たしかに、仕組債の具体的な仕組み全体は必ずしも単純ではないが,上告人Y2は,Cらに対し,D債券を本件担保債券として本件インデックスCDS取引を行うという本件仕組債の基本的な仕組みに加え,本件取引には,参照組織の信用力低下等による本件インデックスCDS取引における損失の発生,発行者の信用力低下等によるD債券の評価額の下落といった元本を毀損するリスクがあり,最悪の場合には拠出した元本300億円全部が毀損され,その他に期日前に償還されるリスクがある旨の説明をしたというべきである。そして,Aは,消費者金融業,企業に対する投資等を目的とする会社で,その発行株式を東京証券取引所市場第一部やロンドン証券取引所に上場し,国際的に金融事業を行っており,本件取引について,公認会計士及び弁護士に対し上告人Y2から交付を受けた資料を示して意見を求めてもいた。 そうすると,Aにおいて,上記説明を理解することが困難なものであったということはできない。 Aが本件取引に係る信託契約の受託者や履行引受契約の履行引受者との間で折衝に入り,かつ,上記事前調査の予定期間が経過していたからといって,本件取引の実施を延期し又は取りやめることが不可能又は著しく困難であったという事情はうかがわれない。そして,本件仕組債が上告人Y2において販売経験が十分とはいえない新商品であり,Cらが金融取引についての詳しい知識を有しておらず,本件英文書面の訳文が交付され ていないことは,国際的に金融事業を行い,本件取引について公認会計士らの意見も求めていたAにとって上記各事項を理解する支障になるとはいえない。 したがって,上告人Y2が本件取引を行った際に説明義務違反があったということはできない。
最高裁のポイントは、仕組債の仕組みが単純でなければ説明義務は高度なものとなるはずで、特に元本割れのリスクなどについて正確に説明をしていたかという判断に流れやすいといえます。しかしながら,基本的な枠組みの説明はしており、そもそも投資会社であるから投資経験は豊富であること、取引に際して公認会計士や弁護士に意見を求めていたということからすれば、説明不足と損害との間に因果関係がないという判断のように思われます。
これに対して岡崎支部は、為替が円安に進めば、高利回りでの運用が期待でき、クーポン発生や償還の条件などは理解しやすいという前提にたっています。そうなると、説明義務の程度も低いもので足りるということになりそうです。しかし、岡崎支部が注目したのは、投資資金の拘束が続くことでした。たしかに、塩漬けにされてしまうと、今引き出すと大損という場合は引くに引き出せません。最悪30年投資資金が塩漬けにされる可能性があるものでした。
このため、多少の投資知識をもっていても、専門的とはいえず仕組債の購入歴がないことに照らして、このような塩漬け期間が長くなりそうな仕組債の販売は一見理解が容易そうではあるけれれども,「相当具体的な説明をする義務がある」という判断をしています。本件でのポイントは、塩漬け期間の長さとそれに関連した途中売却による元本欠損リスクの存在という商品特性にあるので、説明義務の程度が上昇したとみることができます。
ショーペンハウアーといえば、ドイツの哲学者・思想家で、ニーチェに影響を与えましたが、日本ではあまり知られていません。
ショーペンハウアーを読むとき、厳しい現実から目をそらさず、受け止めたうえで、自分の人生をスタートさせようという気持ちにさせてくれます。
例えば、物質的な障害であろうと、障害と闘って勝つことが人間を幸福にするとの一節があります。
実は、ショーペンハウアーの生き方やそれに裏付けられた哲学は、母親に見捨てられたこどもがどうやって自分の心持を保つのか、という一つの処方箋といえます。
たしかにショーペンハウアーは、ペシミスト(悲観主義者)と位置づけられています。しかし、同人はそれをどのように克服しているか、という点に重点があるといえるでしょう。
ショーペンハウアーは、裕福な商人の長男でしたが、父が亡くなり、母親とは相性が悪く別居して暮らしていました。
実家から出ていくとき、二度と自分の前に姿を現さないように通達された彼。彼はそのとおりにして、そうすることで心の平穏を保っていました。
彼のペンミストとしての理論はこうしたものの影響を受けている可能性があります。つまり、世の中の現象には意味などはないという悲観的な哲学を打ち立てることにより、現象はこの世に渦巻く欲望が現れたものにすぎないと論じています。
つまり、母親が彼の安全基地にはならず自分勝手な自己愛的な振る舞いをするということも、同じく欲望が現実化しただけなのだ、と論じるわけです。そうすると,母親の行動は怒りや悲しみを抱くほどのことではないと割り切ることができる、そう理解するようで、ショーペンハウアーは自分を守ろうとしたものだと論じることができるのです。
ショーペンハウハーは母親を求める気持ちを断ち切り、それまで抱いていた自殺願望は母親との決別によりなくなっていました。明晰にいえば、ショーペンハウアーは母親を心理的な安全基地とできず、かえって支配されていたのでした。したがって、決別していなければ自殺していたかもしれず、母親との適度の距離を保ったことや、母親の自分に対する期待を見限ったことが、結果的には、彼の人生を救い、また哲学や人生論に向かわせることになったものと思います。
このように、愛情のない母親のそばにいる場合、母親に愛して欲しいという気持ちを持つこどもほど傷ついてしまうと考えられています。そこで彼は、母親とのかかわりを絶つことによって気持ちの平穏を取り戻すことができたといえるかもしれません。
そして、ショーペンハウアーは、「明るさは、そのままで良いものであり、最高の宝物である。明るいことがあれば、いつまでもそれを取り入れる。私たちは、幸福になるためには、この明るさを確保し、増やすべきである。